明石市議会 2022-09-30 令和 4年生活文化分科会( 9月30日)
第2巻といたしましては、古代から近世までの項目で、それぞれの研究成果をより分かりやすくまとめていただこうと思っております。
第2巻といたしましては、古代から近世までの項目で、それぞれの研究成果をより分かりやすくまとめていただこうと思っております。
まず、内曲輪につきましては、近世城郭の保存を基調とし、城郭の姿の保存・復元を図るゾーンとして、文化財の保護・顕彰を図りながら、往時の姿の整備を図っているところであります。
(資料をモニターに映す) 手書きの地図で大変汚くて申し訳ないんですが、かつて芦屋市には、大名行列などに利用された西国街道と、近世になって生活道路として利用された浜街道があり、かつて菟原郡と言われたこの地域の発展に寄与しました。 赤いルートが西国街道、青いルートが浜街道です。実線は、西国街道の面影を残している部分で、破線は、国道の整備や区画整理などで滅失した部分です。
明治新政府は近世社会の最低身分とされたせん民の身分、職業とも、平民同様とするという内容の太政官布告というのを出されました。いわゆる解放令ですが。これにより、法律制度の上では、差別はなくなったはずなんですが、部落差別をなくするための施策、明治政府が何一つ取らなかったため、現実には依然として厳しい差別が残ったと言われております。真の意味での解放とはなりませんでした。
本市のシンボルとも言える城山は、弥生時代から近世に至るまでの遺跡が確認されていますが、近年において在野の研究家によって、鷹尾城に--鷹尾城というのは城山にあった城です。その鷹尾城に関わる新たな発見がされていると聞きます。 採取された遺物の幾つかを御覧いただきます。画面を替えていただけますか。
次に、郷土の歴史資料が閲覧できるデジタルアーカイブ・サイトにつきましては、宝塚市史のほか、市が所蔵する近世絵図、明治期からの絵はがき、西谷村役場文書のデジタル化を行い、様々なジャンルの資料から郷土について学べるように構成します。
研修の趣旨としては、社会科教育において、最新の歴史研究の成果を基に授業実践を行うことが求められており、同和問題の解決に向けて、近世身分に関わる教科書記述について、具体的な授業実践のための方法論を示すための研修会とのことですが、実際の学校教育現場でどのように生かしていくのか、教育長の考えをお聞かせください。 以上で、この場での質問を終わります。 ○議長(森本富夫君) 酒井市長。
やっぱり宝塚だけの取組ではなくて、芦屋とか西宮にも当時の非常に貴重な建築物がありますから、そういうものも含めて、私は回廊型で検討していくことで、より一層あの地域が歴史的にも文化的にも、いわゆる近世の中で、いかに発展したかということが非常に注目されると思いますんで、その辺を踏まえて市として研究をしていただきたいなと、こう思っております。
中でも赤穂城は近世城郭史上価値のある遺跡として、昭和46年3月、国の史跡指定を受けました。平成18年4月には、当時の財団法人日本城郭協会より、全国数多くある城の中から、日本百名城の一つに選ばれました。
また、同地区は、近世においては酒造業で繁栄した伊丹郷町内であり、みやのまえ文化の郷には国指定文化財、旧岡田家住宅、県指定文化財、旧石橋家住宅や柿衞文庫がございます。これらは、このたび認定をいただいた日本遺産の根幹をなす構成文化財であり、当時の酒造りの様子や商家の繁栄ぶりから経済基盤の上に花開いた俳諧文化までストーリー性を持たせた展示、発信が可能となります。
私は、原因の1つに、姫路城が持つ近世の城に関する膨大な財産が充分に調査研究されていないように思います。県や埋蔵文化財センターの調査報告を見ると、市内各所で貴重な資料がたくさんあります。これは、たまたま開発や工事によるところの産物です。 一方で、本丸御殿をはじめ歴史的遺産の復元やその調査に向けた発掘方針もありません。
だから縄文時代からずっと来まして弥生時代、古墳時代、それから近世、もうずっとあそこら辺には高地性集落群があったということが明らかになっているんです。それを、いやちょっと見逃したんやという、そういうことで大丈夫かなと私は思いますよ。
一方、篠山城は結果的に戦が行われませんでしたが、徳川家康により慶長14年、1609年に築かれた近世の最先端のお城です。それぞれの時代を代表する城跡として、見事に対比しています。近世の篠山城、中世・戦国時代の八上城、それぞれが丹波篠山にある「日本の宝石」と呼べると考えますが、その磨き方とも言える整備計画や活用の仕方は専門家の指導を受けながら、進めているところです。
一方、篠山城は結果的に戦が行われませんでしたが、徳川家康により慶長14年、1609年に築かれた近世の最先端のお城です。それぞれの時代を代表する城跡として、見事に対比しています。近世の篠山城、中世・戦国時代の八上城、それぞれが丹波篠山にある「日本の宝石」と呼べると考えますが、その磨き方とも言える整備計画や活用の仕方は専門家の指導を受けながら、進めているところです。
「このように、八上城跡は、奥谷城、八上城、法光寺城、主膳屋敷と、戦国期を通じ、波多野氏の居城として、その構築の経緯が明らかであり、かつ中世山城から近世平山城への推移の経過が追える城として貴重である。また、この城跡が中世後期の成立と密接な関連を持つことでも価値が高い。
「このように、八上城跡は、奥谷城、八上城、法光寺城、主膳屋敷と、戦国期を通じ、波多野氏の居城として、その構築の経緯が明らかであり、かつ中世山城から近世平山城への推移の経過が追える城として貴重である。また、この城跡が中世後期の成立と密接な関連を持つことでも価値が高い。
むしろ神戸市から見ると、農業だけなら六甲北あたり、あるいは三田市で十分ですし、近世の時代探訪であれば丹波篠山市、背景には日本海やら温泉、あるいは但馬牛がいるというわけで、神戸市から見た一直線上からどんだけ丹波市の顔を出せるかというのが勝負どころではなかったかなというふうに思っております。 それから、人間関係を魅力資源に上げております。
こうした遺構は生野銀山などの大規模な鉱山跡では近現代まで操業が続くため、新たな施設の建設などにより消滅しているものが多いのですが、当町では近世末から近代初頭で鉱山が衰退し閉山しているものが多いことから、完全に破壊されずに良好な状況で発見された数少ない例となっており、歴史遺産として価値は高いものと考えております。銅精錬所跡の展示館は通常無人の状態ですので、安全管理面の関係から施錠をしております。
また、(8)、博物館の城と清和源氏の関係につきましては、同館によると、織田信長の先進的な気風が川西市周辺の歴史を考える上で重要な役割を果たしているとの考えから、織田信長ゆかりの安土城といった近世城郭を参考に建設されたものと聞き及んでおります。 ○議長(大矢根秀明) 市民環境部長。
具体的には歴史教育的な部分でございますけれども、当然長い本市も歴史がありますので、昔の中世、あるいは近世なり、そのあたりの部分の歴史も重要、これはこれで重要なんですけれども、やはりこれから本当にいろんな難しい地方創生の課題を乗り越えていってもらう人材をつくっていくためには、特にその近代の、特に明治以降ですね。